ボッチャ日本代表 杉村英孝さん「仲間との出会いは済生会」
― 杉村さんが抱える障害について教えてください。
杉村先天性の脳性麻痺で思い通りに手や体がスムーズに動かせないという運動機能障害があります。
― 深津さんと角替さんも同様ですか。
深津私は先天性関節拘縮という、足の関節が固くなり動きが悪くなる障害です。
角替僕は杉村と同じ脳性麻痺による移動運動機能障害で、上半身と下半身を思い通りに動かすことができません。
― 皆さんはどのような流れで静岡医療福祉センター児童部に入所したのでしょうか。
杉村私は小学校に上がる時に入所し、高校3年までの12年間を過ごしました。
深津私も入所したのは小学校からです。中学3年までの10年間お世話になって、高校は地元の学校に行きました。
角替僕も幼稚園を卒業したタイミングでセンターに入所しました。以降、杉村と同じく高校3年まで在籍していました。
― 皆さん、入所は同じタイミングなのですね。
阿部車椅子を必要とする障害がある児童の多くは小学校での受け入れが当時は難しく、小学校に上がるタイミングで施設に入所していました。
― バリアフリーという概念が当時はなかったのでしょうか・・・・・・。
望月周囲の認識も今ほどはなくて、親としても入所しか選択肢がなかったこともあるかと思います。
― 小学1年生で親元を離れて暮らすなんて、とても寂しい思いをしたのではないですか。
角替僕は何のために施設に入るのか、その目的すら分かっていない状態でした。 「え、なんで、なんで」って泣いていたと思います。
深津親とは休日にしか会えませんでした。 会えない日は親の声を聞くために、テレホンカードを持って公衆電話に並ぶんです。「もう時間だから・・・・・・」と泣きながら電話を切らなければならなかった記憶があります。
阿部まだ小学1年生ですからね。泣いて当然ですよ。でも杉村くんは泣かなかったんですよ(笑)。我慢強い子なんだなと思いました。
センターの仲間でチーム結成!
― 辛い気持ちを抱えながらの生活だったのではと思いますが、どんなことが楽しみでしたか。
角替ミニ四駆やテレビゲームにハマっていました。でもテレビゲームは1日30分と決められていてそれは辛かった(笑)。
杉村季節ごとのイベントがあったときにはちょっとご飯が豪勢になったり、クリスマスや誕生日にはセンターの先生からプレゼントをもらったりしてました。それがすごく楽しみでした。
望月皆、クラブ活動も結構活発にやっていましたね。お散歩クラブ、折り紙クラブとか、スポーツも車椅子バスケやサッカーなどいろいろありました。
― 皆さんがボッチャを始めたきっかけは?
阿部杉村くんが高校3年生のとき、車椅子バスケクラブのマネジャーをしていた私は、障害者スポーツ指導員の資格を取得しようと研修に参加したときにボッチャを知りました。当時はボッチャが日本に入ってきたばかりで今ほど認知されていませんでしたが「重度の障害がある人でもできそう」という印象を持ちました。
― なるほど。それでセンターに持ち帰って子どもたちに教えたんですね。
阿部私はボッチャの試合のビデオを子どもたちに見せただけなんですよ。
角替ビデオを見た後に先生たちからボッチャの大会があるよと教えてもらって、深津くんに「一緒にやろうよ」という話をしました。先に高校を卒業していた杉村くんにも声をかけて、静岡県内や東京の大会に出場しました。
杉村東京に行くときは、先生たちがミニバンを運転してくれたんですよ。すでに卒業した生徒ばかりなのに。
― 業務の域を超えてますね・・・・・・!
阿部別に彼らが特別というわけではなくて、他の卒業生を連れて出かけたこともありますよ(笑)。
望月それが自分たちのライフワークというか。仕事の延長かもしれないけど、 時間や役割に縛られずに子どもたちと関わりが持てたのでとても楽しかった思い出です。
「共生社会」の実現ツールとなる競技
― 支える側がそのように楽しんで応援していることが、杉村さんの金メダル獲得という成績にもつながっているのかもしれませんね。ボッチャの魅力は何でしょうか。
阿部「健常者、障害者という枠にとらわれず誰もが“ボッチャ”というスポーツとして一緒になってできる」ことが大きな魅力だと感じています。
杉村「共生社会の実現」という言葉をよく聞きますが、 障害があってもボッチャを通じて社会とのつながりづくりができるのが、すごいところです。
多くの支えを胸に、一球入魂パリパラリンピックで高みを目指す
― 競技としての楽しさ、おもしろさが原点、ということもありますね。
杉村はい。日常生活ではサポートが必要でも、ボッチャでは自分がやりたいこと、表現したいことを自ら決定・選択して、実行します。
深津自分以上に重度の障害がある選手も同じ条件の中でプレーをしている姿を見ると、そんな競技はどこにもないと実感します。
― 自分が思うものを、そのままそこで表現できる場になっていると。
杉村もちろん、そのステージで、ボールを1球投げるまでには、本当に多くの人のサポートが必要です。応援してくれる人の力がすごく大きい。ボッチャができることは当たり前なことではないと感じています。
― そこまでのいろいろな人の思いがその一投にこもっているわけですね。
角替センターに入所して共同生活で培われたことがベースとなっている気がします。ボッチャは個人競技ですが団体競技でもあるので、チームの中でコミュニケーションをどう取るかが結果に大きく影響します。人との接し方やものの伝え方、協調性などはセンターで育まれた部分が大きいと思います。
― パリパラリンピックでの目標を教えてください。
杉村リオパラリンピックでは数%だったボッチャの認知度も50%まで上がってきているようです。でも、2人に1人は知らないわけで、パリは東京での盛り上がりをさらにつなげていく大会にしなければいけない。そのためには良い結果を出したいですし、見てくれる人にボッチャは楽しいな、やってみたいなと思ってもらえるような試合ができるように、これから準備をしていきたいです。
― 今後、ボッチャを通じてどのような人生を歩みたいか、思い描いているビジョンがあれば教えてください。
杉村阿部先生からボッチャを教えてもらったことで人生が変わりましたが、これからも親友や先生、周りのさまざまな方々と出会いながら取り組んでいくことも大事なことだと思います。角替くんと深津くんとも卒業後もずっと一緒で、そうした「つながり」をつくり続けていくことが、障害の有無に関係なく人生を楽しく過ごすために必要なことなのかもしれません。
阿部私がボッチャを紹介したのは、障害に負けず前を向いて、生き甲斐とまでいかなくても「人生の励み」となる何かを見つけていってほしかったからなんです。今、彼らには済生会の人々以外にもたくさんのサポーターがいます。これからも彼らのように夢を追いかける人々と一緒に歩んでいきたいですね。
※この記事は、機関誌「済生」2024年6月号掲載時の情報です。