問題を抱えた子どもたちを正しい方向へ導きたい
2019.06.25

理解してくれる大人がいれば、子どもは驚くほど変わる

日本こどもみらい支援機構
Let’s SINC
非行や引きこもりなどの問題を抱えた子どもたちに向き合い、生活や就労をサポートする

子どもたちのエネルギーを正しい方向に使わせると、たちまち変わる。武藤杜夫(むとう・もりお)さんは、そんな子どもたちを何人も見てきました。沖縄少年院で法務教官として非行少年の更生に携わった後、少年院の外であらゆる問題を抱える子どもたちと関わりたいと「日本こどもみらい支援機構(以下、こどもみらい)」を立ち上げました。自分の足で子どものもとへ行き、子どもと同じ目線で寄り添う活動の姿をレポートします。

自分も道から外れた人間だった

梅雨入りしたとはいえ、沖縄の空は青く、風が頭上を吹き抜けていきます。陽が傾き始めたころ、武藤さんがあるアパートのドアをノックすると、中学生くらいの女の子がひょこっと顔を出しました。
「近くまで来たから寄ったんだけど、元気?」
武藤さんの顔を見ると女の子はぱっと笑顔になり、学校のことや兄弟のことなどを話し始めました。武藤さんは時折「ご飯はちゃんと食べている?」「最近学校は行っているの?」と様子を聞きます。


日本こどもみらい支援機構代表・武藤杜夫さん

こんな風に、不登校や引きこもり、家庭環境など、問題を抱えている子どもたちの様子を見に回るのが武藤さんの日課です。生活の様子などを聞いて、困っていることがないか確認します。定期的に顔を見て話すことで、子どもとの信頼を少しずつ築いているのだといいます。SNSを見て、ヘルプが必要だと感じたら現場に直行することもあります。1年間で訪問する子どもの人数は、なんと計800~900人。
「子どもたちに『何かあったら相談しに来てね』なんて言っても、彼らは大人のことを信用していないのでまず来ませんよ。だから、こっちから訪ねる。訪ね続けていくうちに、少しずつ悩みごとを打ち明けてくれるようになるんです」

彼らが心を開かない気持ちはよくわかるといいます。なぜなら、自分もかつては不登校の非行少年だったからです。教師に反発し、喧嘩(けんか)を繰り返し、13歳で不登校に。母親に暴力を振るう父親、それに何の反論もしない母親、うわべばかりの教師と、周囲に尊敬できる大人はいないと感じていました。
高校でも、ヒッチハイクでふらりと旅に出っぱなしの自由気ままな生活を送っていました。しかし、旅の先々で心を通じ合える大人たちと出会えたといいます。
19歳で沖縄にたどり着くと、その空気感がたちまち気に入り、離島に住み込みで働き始めました。旅館などで働きながら3年が過ぎた22歳のとき、何気なく読んだ本で「矯正職員」という仕事があることを知ります。矯正職員とは、少年院、少年鑑別所、刑務所、拘置所などで勤務する専門職です。罪を犯した者に、ときには教師として、ときにはカウンセラーとして、ときには警察官として、生活指導から精神的なサポートまで多角的に関わることで更生を促します。
直観的に「やりたい」と思いました。旅で出会った大人たちが自分を導いてくれたように、「人が人を導く仕事がしたい」と考えたのです。
「自分が子どものときにそばにいてほしかった大人になりたい」その一心で猛勉強した末、23歳で難関の国家公務員試験に一発合格。東京の府中刑務所に刑務官として配属されました。その後、宮古島の宮古拘置支所を経て、2009年、31歳で沖縄少年院へ。ここで運命的な出会いをすることになります。


法務教官時代の武藤さん

とにかく目の前のことを全力でやれ

沖縄少年院での勤務は強烈でした。
「窓ガラスが割られる、少年たちは教官の言うことなんて全然聞かない。教官もストレスから体調を崩して入院してしまうほどの荒れようでした」
武藤さんは子どもたちを指導しながら、もう一方で彼らの伸びる芽を探していました。生徒の中で、後にこどもみらいを一緒に立ち上げる原琢哉(はら・たくや)さんにリーダーシップがあることを見抜き、集団行進のリーダー役を命じると、数カ月後には全員が息の合った行進をするようになりました。


「最初は恥ずかしかったけどやってよかった」と当時を振り返る原琢哉さん

「少年院に来る子たちはエネルギーがあふれているのですが、その使い道がわからず持て余して間違った方向に使っているだけ。だから、正しいエネルギーの使い方がわかったら、驚くほど変わるのです」
子どもが非行に走るのは、それまで自分のことを理解して導いてくれる大人がいなかったから。彼らが、自分の長所ややるべきことを見つけたら、それが希望となります。
「少年院では『目の前のことを手を抜かずに徹底的にやれ、突き詰めると自分の好きなことや適性が見えてくるから』と言っていました。すると、手先が器用だったり人と話すのが好きだったりと、やりたいことや自分の得意なことが見えてくるのです」
一人、また一人と生徒たちは変わっていきました。最初に長所を見出された原さんは、出所後に建築業の道へと進み、今や26歳にして11人の従業員を抱える経営者となっています。経営の秘訣を聞くと、「毎月、社員一人ひとりと差し向かいで話す機会を持つこと」だといいます。
「一人ひとりと真剣に向き合うこと。武藤先生から教えてもらった、僕が大切にしている理念なんです」
そう話す原さんを、武藤さんは目を細めて見ています。


「今でも目の前のことに全力で取り組んでいます」と原さん(左)

残りの人生は子どもたちのために

37歳のとき、武藤さんは単独登山中に滑落して瀕死の重傷を負いました。何とか一命を取り留めた後、「何かに生かされたのだから残りの人生は子どもたちのために生きよう」と決心したといいます。
奇しくもこの1年後、管理職への昇進辞令が下りました。本来なら栄転ですが、同時に現場から永久に離れることを意味します。「現場を離れることは考えられない」と、武藤さんは周りの猛反対を押し切り、国家公務員を辞職しました。
その直後、真っ先にSNSを通じて連絡してきたのが原さんでした。もう一人の武藤さんの教え子と共に「先生と一緒に何かしたい」と言う原さんに、武藤さんは「子どもたちのためにやりたい活動を存分にやろう」と機構立ち上げに誘いました。「この国のために」「子どもは未来そのものである」という意味を込めて「日本こどもみらい支援機構」と命名。早速講演会の依頼を受け、元法務教官と少年院卒業生という異色のメンバーでの活動が始まりました。
その後も、県の委託を受け子どもへのカウンセリングを行なったり、法務教官時代に関わった少年院卒業生を訪ねて支援したりと、活動を広げていきました。「活動内容を縛られたくない」と、活動当初から国や地方自治体からの助成金を一切使わず、寄付と講演料だけで活動しています。
又吉誠也さん(19歳・仮名)は、こどもみらいが県のニュースに取り上げられたことがきっかけで武藤さんと関わった少年院卒業生です。ニュースを見た又吉さんの母親が、少年院卒業後の就職について武藤さんに相談してきたのです。武藤さんが地元の漁師に掛け合い、又吉さんは念願の漁師になりました。夜明けと共に起き、海に出てマグロやイカ、金目鯛などを釣ります。


慣れた手つきで漁の準備をする又吉さん

「漁師は人手不足だから若い人は大歓迎だけど、体力的にきついので長続きしない人が多い」(船長)という中、周囲が感心するほどのガッツをみせています。筋肉で盛り上がった腕で釣り糸の仕掛けを作りながら、又吉さんは、「この仕事が好きだし、毎日が充実している」と屈託ない笑顔をみせました。


漁を共にする船長の井口さん(左)、又吉さん(中)、先輩漁師の伊波さん(右)

最終的な被害者は子ども、それも女の子

沖縄は日本でも群を抜いて離婚率が高い県です。シングルマザー率や、10代の出産率も高く、その社会のゆがみが子どもたちに影響しています。そして、最終的に行き場を失うのはいつも女の子です。武藤さんは、そんな少女たちが共同生活できるシェルターも運営しています。
「ここでは、朝早く起きて、自炊して3食食べ、夜は11時に消灯という規則正しい生活を習慣づけます。生活のリズムができると、働く意欲や学ぶ意志が自然と湧き出てくるものなんです」


ピカピカに掃除されたシェルター。最大3人の少女が暮らす

今日の夕食は又吉さんが差し入れてくれた新鮮な魚だ

少女たちもシェルター生活を通して、本来の自分を見つけたのでしょう。その表情は、前を向いています。約半年間シェルターで暮らしていたRさん(20歳)も、現在はアルバイトを掛け持ちして立派に自立しています。持ち前の明るい性格で、職場でも人気者のようです。
こどもみらいで事務局を務めるSさんは、シェルターで少女たちの姉役になることも。
「複雑な事情を抱えて今がある子が多いので、大変なこともありますが、彼女たちの人生のサポートができたらうれしい」とほほ笑みます。

これほど子どもたちを想い、彼らからも信頼されている武藤さんですが、「子どものことがわからなくなることはないですか?」と聞いてみました。しばらく考えて、武藤さんはこう答えました。
「相手のことを真剣に思い、向き合っていると、そのとき、その子にとって何が必要か、わかるようになりますよ」

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