馬の特性を生かし障害をもつ子どもたちの心に自信を育てる
九州を代表する都市として賑わう福岡市の中心部から気軽に足を延ばせる距離にあって、豊かな自然に恵まれた糸島半島は福岡で人気の観光地です。玄界灘に沈んでいく夕日の眺めが素晴らしい「サンセットロード」を筆頭に、糸島の海岸線は絶好のドライブスポットとして福岡の人々に愛されています。癒しの休日を過ごすために訪れる人も多い糸島エリアで、何とも牧歌的な風景に出会いました。
道を行くお馬さん。のんびりとした蹄の音が聞こえてきます。周りは田園風景で、たまに見かける車の走る音以外には、のどかな鳥の鳴き声とそよ風に揺れる木の葉の音だけ。騒音に邪魔されることなく、パカッ…、パカッ…、とゆっくり歩く蹄音が耳に届きます。
前髪が格好いいポニーの“ギンガくん”。彼こそ、今回の取材相手であるセラピーホースでした。ギンガくんの歩調にあわせて手綱を引くのは、香月福祉会MUKAの玉井香織さんです。
玉井さんが香月福祉会MUKAの敷地で障害のある子どもたちに向けてのホースセラピー活動を始めたのは2015年のこと。短大を卒業後、大阪府の乗馬クラブに就職した玉井さんは乗馬のインストラクターとして経験を積み、その勤務地で初めて、障害のある人々のリハビリや療育のために乗馬が活用されていることを知ったそうです。ボランティア活動に参加し、10年前に理学療法士の資格を取得。また、イギリスの障害者乗馬協会の理念のもと、日本国内で障害者乗馬の普及を目指すNPO「RDAJapan」の認定インストラクター資格も取得しました。
その後、玉井さんは週末を中心としたボランティア活動として2012年に福岡で「チャレンジドホースサークル」を立ち上げます。「まずは一個人でできる範囲のことから」と、障害児を対象に活動を開始しましたが、馬1頭を乗馬クラブに預けて行なっているため、どうしても一定額の費用がかかります。しかし利用者の負担額が大きくなれば、利用してもらうこと自体が難しくなってしまう。必要なマンパワーは有志のボランティアが支えてくれましたが、このままでは活動の継続も難しい…と悩んでいた玉井さんに救いの手をさしのべてくれた人々がいました。糸島市の障害福祉サービス事業所・香月福祉会MUKAの岡﨑義則理事長が玉井さんの活動とその志に共感し、協力してくれることになったのです。
香月福祉会MUKAは、障害のある人々が社会自立をするための橋渡し役となるべく、さまざまな支援事業を行なっています。利用者の皆さんが地域社会の一員として貢献できるよう、糸島の海岸清掃や農業、手工芸、アート活動などに日々取り組んでいるのです。
2015年にMUKAの敷地内に手づくりの馬場ができました。すぐ隣には利用者さんたちの畑があって、奥にはこんもりと樹木が生い茂っています。以来、ここがギンガくんの仕事場となりました。さらに幸運なことに馬好きのご近所さんがいて、ご自身が飼っている2頭の馬と一緒に自宅の厩舎でギンガくんを預かってくれることに。玉井さんに曳かれて一般の道を歩くギンガくんの姿は、通勤・帰宅の風景だったのですね。
取材に訪れた日も、2人のお子さんがお父さんとお母さんと一緒にホースセラピーを受けにやって来ました。どちらも糸島市のお隣、福岡市にお住まいだそうです。発達障害や自閉症のお子さんに対して行なわれるホースセラピーというのは、どのようなものなのでしょうか。玉井さんに伺います。
「馬に乗ること自体が目的ではありませんので、子どもの気が向かなければ乗馬をしないこともあります。馬場の外に手づくりの遊具も設置しているので、自由に遊びまわっていいんです。馬を見ること、近づくこと、触れること、手綱を引くこと、乗ること。お子さんのペースで段階を踏んでいくことが大きな自信につながります。その成功体験による自信の積み重ねが、日常生活にも生きてくるんですね」
子どもが騎乗している際には、馬を曳く「リーダー」と両サイドに騎乗者の安全を確保する「サイドウォーカー」がついて、常に騎乗者と馬の状態に配慮しています。子どもはときに諸手をあげバンザイした状態で馬の背に揺られたりもしていますが、誰も慌てることなく安全でのどかな時間が過ぎていきます。
アニマルセラピーというと、人にとって最も身近な動物といえる犬や猫によってもたらされる癒し効果、というのも頭に浮かびます。ホースセラピーの場合、犬や猫のそれとはどのような点が違うのでしょう。そんなことを疑問に思っていたら、玉井さんが「馬」であることの特長について教えてくれました。
「第一に、馬は群れで生活する草食動物だということです。群れる、つまり他者と接点を持つことを好みながらも相手との距離に慎重だといえます。犬が人に駆け寄ってくる姿は皆さん容易に想像できると思いますが、馬はあのようにパーソナルスペースに一気に入ってくることを性質的にしないのです。この距離感が、障害児と接する上で非常に利点となります」
「第二に、これは見てわかる通りですが背中に乗ることができるということ。最大の利点であり、人間を受け入れてくれている証しです。その背から直接温もりが伝わって優しさを感じられるだけでなく、乗馬による感覚の刺激が身体に良い影響を与えてくれることも期待できます」と玉井さん。
鞍の上に体圧センサーを敷いて騎乗者の重心移動や体圧分布の変化を測定したところ、乗馬の回数を重ねることで左右の座圧の違いが改善されるなどの効果が見られたそうです。乗馬によって体幹が鍛えられていることがうかがえます。
発達障害の子どもたちの多くに「体幹の弱さ」という共通点があり、姿勢を保持することが難しいため授業中にじっと座っていることができない、いつも落ち着きがないなど、その特徴は日常生活の中で顕著に表れます。しかし、ホースセラピーによって体幹を鍛えて運動機能を向上させることで、その改善に役立つのではないかと考えられているのです。
「もちろんご両親の皆さんはホースセラピーだけでなく、改善のためにさまざまなアプローチをされているので、一概にホースセラピーの効果だと言い切ることはできません。でも、馬上の子どもたちの表情を見ていると、セラピーの効果は十分に実感できるんです」
ギンガくんの手綱を引いて馬場を歩く男の子が、勢いよく駆け出そうとした瞬間に玉井さんが優しく大きな声で語りかけます。
「ギンちゃんの顔見てみて~」
「ギンちゃん、どういう顔してるかな~?」
男の子は振り返り、スピードを緩めてまた歩き出します。
しばらくして男の子が水飲み場のところで立ち止まりました。
「ギンちゃんがお水飲みたいって気づいてあげたんだね~」
と声がけを続ける玉井さん。
触れ合う間、男の子が常にギンガくんの状態を気にするよう誘導しています。社会性をはぐくむために、他者を意識することを習慣づけているのです。
優しく触れたり、自分の手でニンジンをあげたり、そして背に乗って体温を感じながら一緒に歩んだり、ギンガくんとの交流の中で楽しい時間を過ごすお子さんの顔を、笑顔で見守るお父さんとお母さんの表情も印象的でした。
玉井さんはもちろんご両親の良き相談相手でもあります。信頼して話ができる相手の存在は、子育てに悩むご両親にとってどれほど心強いことでしょう。
週末活動を続けてきた「チャレンジドホースサークル」ですが、利用を希望する人々が増え、香月福祉会MUKA内に今年から「児童発達支援・放課後等デイサービスLib!(リブ)」が開設されました。
玉井さんが代表となって、ホースセラピーだけでなく、自然の中で遊ぶ活動や野菜づくり、収穫体験、アート活動など、さまざまな療育活動を行なっている平日開所の施設です。
児童発達支援は0歳~未就学のお子さんを対象とし、10時~12時まで親子療育を中心に行なわれ、放課後等デイサービスは送迎可能なエリアで、学校が終わってから17時まで開所しています。
ホースセラピーを活用した児童通所支援事業所は、福岡市周辺では初めての開所だそうです。玉井さんが「一個人でできる範囲のことから」始めた活動は、地域の人々やボランティアの協力に支えられながら一歩一歩前進し、より多くの人々のニーズに応えられる施設へと広がりを見せ始めています。